2011年10月

San Francisco
サンフランシスコ


2011年10月

Mexico City
メキシコシティ


2009年9月

Porto Lisbon
ポルト リスボン


2009年9月
Basel Bern Ronchamp
バーゼル ベルン ロンシャン


2007年6月

Kobenhavn Humlebak Rodovre Roskilde
コペンハーゲンと幾つかのデンマークの街


2007年6月
Helsinki Jyvaskyla
ヘルシンキとユヴァスキュラ


2006年3月

Amsterdam Utrecht
初めてのオランダ。建築、町、文化の違いを体感できた気がします。


2006年3月

Frankfurt Korn Stuttgart Mainz
フランクフルトを中心に電車を使いドイツ西部の町を訪れました。


2005年11月

福岡
以前見た建築、新しく出来た建築を見に行きました。福岡の街はスプロールと市街地の再開発が盛んに行われ変化の速さと、アジアの拠点としての活気を感じました。


2005年2月

 

丹後半島
丹後半島に行きました。写真は天橋立から撮ったものです。冬の日本海らしく、厚い雲が覆いかぶさる曇天で、雪の白と海の深い青色とが美しいコントラストです。


2004年8月14日
長崎
写真は、長崎の大村湾です。大村市北部の鹿ノ島という小さな半島の岬から撮ったものです。この日は多少波があり、琴の海といわれる穏やかな大村湾の夕暮れではありませんが、この時間の大村湾が一番美しいと思います。今回、長崎の西彼杵を訪れました。観光地として開けている長崎市や佐世保とは趣が違い、自然環境が残り、海と山の変化のある風景を見る事が出来ます。車を使い佐世保より西海橋を渡り、東シナ海を望む西の海岸線のルートを通りました。

2004年6月12日

 

イサム ノグチ庭園美術館
 イサム ノグチ生前のアトリエ・住居を残した美術館です。作業蔵、屋外展示、展示蔵、住宅があり、建築・庭園・彫刻が一体となった空間です。作業蔵を取り囲む塀は高さ2mを越す石積みで、円を描いています。完成品、未完成品の彫刻がその庭園部分に置かれています。塀の作り出す曲線と高さがすばらしく、落ち着いた空間が展開しています。
 展示蔵に入って置かれている彫刻を見て気づくことがありました。どの彫刻も水で濡れています。美術館の方に尋ねると、イサム ノグチが主張する石と水との相性の良さを、来館者に伝える為、日に3回ある開館ごとに水を掛けているそうです。また来館者に前回の来館者の存在を感じさせない様、土間の砂に残った靴の跡も消しているという気配りがありました。美術館とは何かと改めて考えさせられます。
 コースの最後に彫刻庭園の小高い丘に登ります。自然の地形を利用し、風景を彫刻化されているようです。イサム ノグチの中の日本的なものを表しているように思います。


イサム ノグチ庭園美術館:
香川県木田郡牟礼町牟礼
※要予約


2004年4月
Barcelona
 バルセロナを訪れました。ガウディの幾つかの作品、バルセロナ・パヴィリオン、ピカソ美術館、ミロ美術館などを見学しました。バルセロナの町はそれまで見たヨーロッパの町と違った印象を持ちました。明るく整っていて、同時に変化があって楽しく、建築も中世・近代・現代と見所が多彩です。ガウディの一連の作品も実際体感しなければ分からない良さを感じることが出来ました。

2004年4月

 

Ravenna  Gubbio Urbino  Rimini Milano
イタリアの幾つかの町を訪れました。
今回友人の案内も有ってRavenna  Gubbio Urbino  Riminiというイタリア中部の町めぐりです。写真はウルビノです。それぞれの町は地形の変化や、恐らくその町の文化を反映し特徴を持っていて雰囲気が違います。町にはDuomoがあり、それを中心として町が形作られています。
それまでのイタリア旅行と違い、よりヴァナキュラーなものを感じることができたような気がします。


2003年11月17日

 

 

沖縄に行きました。数箇所のグスク(沖縄の古語で城)を見学しました。写真は中城(なかぐすく)城です。14〜15世紀に築かれたもので、琉球石灰岩を積んだ緩やかな曲線が特徴です。小高い丘の上にあり、太平洋の眺望も素晴らしいものでした。

写真下は中村家住宅(重要文化財)の入口です。道に面する入口正面にヒンプン(顔隠し塀)があり直接母屋が見通せないようになっています。アプローチに奥行きを感じます。綺麗に詰まれた石積みの塀が美しく、建築に囲まれた中庭は、独特の落ち着いた空間です。
15年前、学生の頃一度来たのですが、新たな発見や感動があり、同じ建物も時を変えて見ると感じ方が違うということに改めて驚きました。



2001年9月

 

Berlin
Daniel Libeskind設計のユダヤ史博物館を見に行きました。大変楽しみにしていたのですが、完成OPENは訪れた日の翌日で、中は見ることが出来ませんでした。建物の周りを歩き回り、外の窓から中をのぞく程度が精一杯でした。


Berlinでは東西ドイツの統一後の再開発が盛んで、建設ラッシュです。ポツダム広場などドイツにおける再開発のプロセスやコンセプトに感銘を受けました。


2001年9月






Wien
ウィーンは古典建築から現代建築に至るまで見所が多く、大変興味のわく町です。また、CAFEの歴史も古く、その伝統を感じさせるお店が多く営業しています。美味しいケーキを置いています。

上からHotel Sacherの"sacher torte"
Cafe Museum
Cafe Landtmannの"creamshtere"(お勧めです)





2000年10月
  21世紀は遠い未来の世界だった
 子供の頃、20数年前、21世紀といえば光り輝く遠い未来というイメージだった様に思う。高度経済成長の続く時代で、全てが上昇方向に向かってより高く、より速く進んでいくように見えた頃に育った。ちなみに私は1967年生まれである。子供の自分にとって20数年という年月は途轍もなく長く想像にいたらなかったのである。小学生の図画の課題に「未来の町を描きましょう」というのがあった。何を描いたか思い出すと、そこでは林立する超高層ビルと、その合間を縫って架空のレールを走る高速鉄道(形は新幹線「のぞみ」のような先のとがったもの)そんな町を描いたような記憶がある。おそらく重工業的な町ではなく、高層・高速の眩い都市を考えていた様に思う。未来という言葉に神秘性や漠然とした期待まで感じていた。未来はブリリアントでワクワクする世界であって、それが21世紀のイメージだった。
やがて、子供の自分にも未来の世界に対して悲観的な要素が入り込んできていた。ニ大国の冷戦構造の中でいつ勃発するかもしれない核戦争、一般社会にも浮上し始めてきた地球環境問題などへの認識が起きていた。一方1981年のスペースシャトル初飛行を目の当たりにし、未来を考えるとき、もはや宇宙時代の到来を抜きには考えられなくなっていた。
 映画の中でも近未来は印象的に表現されているものが多い。ある時期まで21世紀の世界は遠い未来という捕らえ方があったのではないだろうか。また未来に対する人の興味が大きく、映画はそれを巧く満たすことのできるメディアであるためと思う。古くは「メトロポリス」(監督:フリッツ・ラング 1927年)に現れる重工業都市とロボット、「2001年宇宙の旅」(監督:スタンリー・キューブリック 1968年 / 原作:アーサー・C・クラーク)では意思を持ったコンピューター、「ブレードランナー」(監督:リドリー・スコット 1982年 / 原作:フィリップ・K・ディック)では、2019年の廃墟化した都市とアンドロイド、「未来世紀ブラジル」(監督:テリー・ギリアム 1985年)では、極度に情報管理された非人間的な社会、「アキラ」(監督:大友克洋 1988年)では、第三次世界大戦後の東京湾を埋め立てて復興を終えた退廃的な東京の街、それらは現在のテクノロジーの推移と時代的な背景が良く反映されている。
 そういう意味で、私にとって20世紀と21世紀の分岐点は、キリストの生誕に関する時間的なものだけでなく、かつて夢見た未来と進行しつつある現在との衝突点でもある。それは仮想の未来世界と現在の世界との象徴的なターニングポイントとも言える(ちょっとオーバーな言い方かもしれないが…)。そして私自身が過去に見た未来人の当事者になろうとしていることを感じる。
 ところで次の世紀では、更に22世紀の未来世界の夢を見ることが出来るだろうか?
(兵庫県建築士会神戸支部青年部会パネル31号掲載)

1998年12月

 

 ヴァチカンのサンピエトロへいきました。アプローチの脇にある入口です。守衛さんに止められ、この先は入ることは出来ません。

 この写真の奥にスカラレジアという階段があります。この階段は上がったり下がったりの空間だけではなく、奥に行くにつれて、幅は狭まり、列柱の間に騎馬像を置き、舞台効果を演出しているそうです。階段が上下階の違う空間をつなぐ装置と考えると、また見方も変わります。

1990年11月


学士論文「大仙院石庭研究-日本的構成と理念」 序文より
 日本庭園の歴史は古く、その庭園としての成立が何かは定かではないが、やがて「寝殿造の庭」に初期の一典型を観ることができる。それは大陸の影響を受けた建物と庭であり、大陸風の様式として位置づけられる。確かにはじめは大陸様式の模倣にすぎなかったのかもしれないが、そこから日本的な処理が行なわれてゆく。つまり形態的には相称性の崩れ、庇・縁の発生など各所に見られ、徐々に典型からのずれ・崩しを行いこれに伴って庭園も変化する。その展開のなかで「枯山水」は突如として現われてきたのではなく、連続した変化のなかの一現象と考える。
 「枯山水」としての歴史的展開を考えると、その言葉は「作庭記」にもっとも早く現われている。「作庭記」はその著述の年代、作者についての定説はないので異論はあると思われるが、一般的にはそのような見方をしているようである。そこには、「池もなく、遣水もなきところに石をたつることあり、これを枯山水となずく、」とある。ここに現われている「枯山水」が、現在一般的に考えられるそれと、全く同じかどうかは疑問であるが、それに近いものであることはその言葉のうちにうかがえる。語源についても諸説がありそれらの幾つかを挙げると、仮山水(かさんすい)、唐山水(からさんすい)、乾山水(からせんすい)、枯山水(ふるせんすい),枯水形(からみずがた)、枯山水(ふるせんすい)、枯山水(こせんすい)があり、何れが正しいか、また何れの組合せが正しいのかは今回の研究では主旨を異とするため断言しかねる。ただ現在の一般的な「枯山水」という呼び名と類型化は、明治以降ではないかという堀口捨己氏の説を付け加えておくに止めたい。現在日本庭園を類型化すると、回遊式庭園、路次庭、枯山水がある。これらの庭のなかで枯山水を分かつ特徴は一般的には水を使わず石組によってそれを表すということになるだろうか。またそれを表す幾つかの文章を挙げる。「枯山水は、遊楽・散策などの実用的な要素を持たない。いわゆる園遊に必要な施設は枯山水では拒否され、屋内から静にこれに対峙して鑑賞するよう構成される。したがって、人体に応じた尺度を考える必要がなくなり、実際の自然とは別個の自由な尺度の概念で構成される。」(吉川需氏)「それは池や流れの水の有るべき所に、水を使わないで、砂や小石で水の有る感じを、象徴的に表し出した石庭を、特に枯山水と呼んでいるのである。」(堀口捨己氏)そしてこの「枯山水」の典型の一つに「大仙院石庭」がある。
 これらの庭にある造形理念の根底には常に自然らしさがある。「作庭記」には「地形により、池の姿にしたがいて、よりくる所所に風情をめぐらし、生得の山水を思わえて、その所々はさこそありしかと思いよせ々々立つべきなり。」、「山水並野系図」には「木、草ヲ植ンニ本所ヲマナブト云エリ、深山ノ木ハ深山、野山ノ木ハ野山、水辺ノ草木ハ水辺、海辺ノ草ハ海辺、カヤウニ心得テ草木ヲウユルニマトハズ、故、山水ハ山ヲウツスト云リ、ミナコレ生本ノ二字ニカエルベシトイヘリ。」とある。ここには生得、本所、生本といった言葉があり、伝統的日本人の自然に対する態度が庭造りを通してうかがえるのである。